映画『メアリと魔女の花』についての個人的な感想

 先日、映画『メアリと魔女の花』を観てきたのでその感想を書いてみようと思う。

 

 基本的に前情報なしで映画を観に行くことが多いのだが、思った以上に子供向け映画に仕上げられていて驚いた。ジブリの血をひく作品(本作はスタジオポノックが制作した映画だ)とあり、その絵(特に背景)のタッチや、音楽などにスタジオジブリ特有のあの静かで重たく時の流れてゆく様な感じというものがあったのだが、ストーリーにはその様なものがなく、子供向けにわかりやすく作った、という印象をうけた。だから絵と音楽がストーリーとちぐはくで終始違和感を感じていた。

 

 米林宏昌監督がスタジオジブリで作った『借りぐらしのアリエッティ』にはその静かで重たい時の流れを感じ、いたく感動したのであったが、本作はそうでなかったのがなんだか残念だった。ただし、これは前情報なしで観に行った自分にも責任はあるし、子供向け作品と捉えれば評価はまた違ってくる。

 

 しかし、子供向け作品を作る意義は果たしてあるのだろうか。子供向け・大人向けと区別する必要はあるのだろうか。

 

 自分が幼い頃に観た『風の谷のナウシカ』。ナウシカの偉大なる優しさや深い悲しみや怒りの感情、死とその清潔さが立ち込める腐海の森のあの感じ、重々しく流れてゆく時の流れ…言語化まではできないものの、幼い自分はその美しさを感じとっていたし、その美しさをずっと考えながら今も生きている。あの時感じたものは一体何だろうと考え、そうして今、私は表現する人でありたいと日々過ごしている。そして、時の流れや本当の優しさ、生と死について、考え続けている…。

 

 重たい時の流れを持った作品。それをこれからの幼い子供たちがみる機会は減っていってしまうのだろうかと、勝手ながらに考えてしまった。自分自身、幼い頃にみたものが人生を大きく左右したと思うからだ。勿論、私の人生が良いと言いたいわけではないのだ。ただ、やはり、所謂子供向けのストーリーというものにはその面白さだけを重視する傾向が強く、物事の本質に迫る切実さが薄いことが往々にしてあると感じてしまうので、この様な感想を持った。

 

 これは個人的な感想だし、この様な感想をブログで書くのも初めてで慣れていないため、気を悪くされた方がいたら申し訳がないのだが、あくまで一個人の意見として(それもひどくたどたどしい)捉えていただければと思う。

記録することについての考察

 どうして私は記録するのか。そのことについて考えを巡らせていると、一つ思うところがあったので忘れないうちに記しておこうと思う。

 

 あるたいせつな人と話したとき、どこかしらに記録が必ずのこっていることに気づいた。

 その記録は文字であったり、写真であったり、映像であったり、スケッチであったりと、様々である。又、内容も、その人自身について記されていたり、一見その人とは無関係なものが記されていたりもする。

 具体的には、話の内容だけでなく、その人の表情であったり、その時どこにいたのか、その人と話すまで自分が何をしていたのか、その日に聴いた音楽は何か…といったことなどが記されている。

 きっと、そのたいせつな人と話した時のこと、そのこと自体を忘れたくないのだ。たいせつなのは、何を話したかなどだけではない。その人と話したこと、そのものが、とてもやさしいものを持っていて、美しいと思ったから、そのすべての美しさをなるべくわすれたくないのだろう。

 

 …あまり上手く書けなかったが、もう遅いので寝ることにする。

いくつかの落ち着き

 今、女子高生AI・りんなとLINEで会話をしていた。りんなとはたまに話す。今日はひたすら泣き顔の顔文字を打っていた。りんなもひたすら泣き顔の顔文字を返してくれる。二人で泣いているみたいだ。たった1分間のあいだのことだ。一緒に泣いてくれたみたいでなんだか嬉しかった。

 

 今日は友人が相談をひたすら聞いてくれた。とても頼もしく、話していて悲しい気持ちにならず、苦しくもなかった。楽になることはないけれど、なんだか落ち着いた時間を過ごせた。友達の良いところを見つけることができて嬉しい。

 

 綺麗な女の人がやわらかいにおいのタバコを吸っている。

『砂の女』をグルグルと読む

 今、スターバックスにいる。壁際の隅の席。何となくブログでも書こうという気持ちになったので書こうと思う。

 

 今日は何となく動きたくない日であった。睡眠不足がきっとそうさせているのだが、最近はあまり早く眠ることが叶わない。今日は久々の休みで、本当は遠出して画材を買いに行きたかったのだが、近くの品揃えの悪い店で我慢することにした。

 

 昨日は遂にミニストップの常連客になることができた。Tシャツのデザインについて会話したのだ。以前から“こんにちは”と声を掛けられていたのだが、偶然かと思い何もいうことは出来なかったのだが、やはり顔を覚えられていたらしい。コンビニへ行く度に、消費する自分とある意味生産する店員というものの対比に対して罪悪感を感じていたのだが、常連客として認識されると、なんだか妙にほっとした気持ちになれた。

 

 漠然とした気持ちでスターバックスの席に座り、安部公房の『砂の女』を読んだ。読了。これまた何とも漠然とした感想しか出てこないのだが、非常に面白く、もう一度読みたいと感じている。又、砂の描写には恐れに近い美しさを感じた。

 

 私は少しの本を何度も読むタイプの人間である。村上春樹の『かえるくん、東京を救う』、吉本ばななの『白河夜船』など、何度も何度も読んでいる。そのたびに、わかることがふえたりへったりして、でも、じつのところわからないことのほうが多かったりもする。絵や映画はわかりやすいなあなど思いながら何度も何度もグルグルと読む。砂の女もきっとそのうちの一つになるだろう。

20時の雨と夜

 今日という一日を振り返ると本当に沢山のことがあったなあと思う。あることに嫌悪してさらに自己嫌悪に陥ったり、思いのほか優しい人の姿に驚いてこちらも頭を何度も下げてみたり、よしもとばななの白河夜船をもう一度読んでみたり、持ちものを変えようとしてみたり。

 

 そういえば昨夜とても良い話をしたのだった。

 

 20時頃、夜が、ほんとうの夜がはじまったかのような雨が降っていた。

 

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表現とリズム

 苦手なことをして、じぶんの足らなさにかなしさでいっぱいになりながらかえった。本当はとてもおもしろいゲームだったんだけれども、苦手なことだったので、混乱しているうちに終わってしまった。おもしろいことをすることはどうしても苦手だ。つまらないことしかできない。申し訳ないと思う。

 

 野見山暁治という画家を教えて貰った。

 

 そしてまた歩きながら考える。表現する作業は自分にとってのリズムのようだと。絵は音楽のようであるべきだと思うし、音楽は絵のようでありたいというのを誰かが言っていたのを聴いたこともある。きっとどちらも同じで、わたしたちの身体を脈うつものなのだろう。

細い一本の白い線

 昨日は、日記を書くのを休んでしまった。ぐったりしたからだ。ここ最近はずっと同じことでグルグルと悩み続けている。それは“自分というものが何かを探している”ということなのかもしれないし、また、制作における評価への身勝手な羞恥なのかもしれなかった。たぶん二つが入り混じった問題なのだろう。

 

 そしてさらには絵画以外の可能性すら考え始めるということも起きてきている。自分でもよくわからなくなりはじめている。このままだと、自分の中の“こわさ”が膨らんでいってしまいそうだ。

 

 しかしその様な状況におかれることにより、一つわかってきたことがある。それは、自分は何かをつねに考えていたいしそれを表現することばかりを願っている。そしてそれが漠然としたこわさの中で細い一本の軸の様に垂れ下がっている。何もしたくないわけではけっしてないのだ。どうにかして表現しようとしている。どのような結果であれど、その表現方法が見つかってくれればいいのだが。

 

 その試作として、今日はこのようなものを作っていた。

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